縄文人の宴のあと@蜆塚遺跡

縄文時代:約1万3千年前~
作成:200323 / 更新:200814

縄文時代


 約1万年前、氷河期だった旧石器時代(更新世)が終わり、温暖化により海面が上昇、日本列島が形成される。地質学的には完新世と呼ばれ、現代もこの完新世に分類される。すぐに~新世かを忘れてしまうので、completeの"完"新世と覚えよう。
 縄文時代になって何が一番変わったかといえば、食べものだろう。それに伴い様々な道具が出てきた。ナウマンゾウなどの大型動物が激減し、代わりにシカやイノシシ(ジビエ!)などの中小動物が増加した。素早く逃げ回る獲物を狩るために、新石器=磨製石器を使った弓が、魚を捕るのに骨を使った釣針やもりが用いられた。そして、ドングリやクリを煮詰めるのに土器(縄文土器)が生まれた。




蜆塚遺跡


 浜松にも縄文時代の遺跡は複数あるが、三方原台地の南端に位置する蜆塚遺跡(しじみづかいせき)を避けて通ることはできない(むしろ他の縄文遺跡は知名度がほとんど無い、、、)。一口に縄文時代といっても、実は1万年近く続いた時代であり、蜆塚遺跡は約4000年から約3000年前の縄文時代後期の遺跡である。
 蜆塚は町名にもなっており、文字通り食べ終わった貝が積まれた層である。実際はゴミ捨て場に近いもので、貝(主にヤマトシジミ)だけでなく、シカ、イノシシ、キジ、クロダイ、スズキ、カツオなどの骨も発見されている。厚いところでは約1.5mの層になっており、1000年かけて堆積した宴の跡だ。


 日本で最初に発見された貝塚は、1877年にアメリカ人動物学者のモースが汽車の車窓から気づいた(!?)東京・大森貝塚。他には千葉県の加曽利貝塚(かそりかいづか)が有名。ちなみに、1877年(明治10年)は東京大学が開校した年で、モースは同年に教授に就任している。一方、蜆塚遺跡の本格的な調査が始まったのは1955年だが、蛮社の獄があった江戸時代末期の1839年頃、入野の文学者である竹村広蔭(たけむらひろかげ)の著書に貝塚の記載がある。このころから蜆塚という地名が存在していた。


竪穴住居、屈折葬と土偶


 旧石器時代と縄文時代のもう一つの大きな違いは、移住生活から定住生活への変化だ。それを象徴するのが竪穴住居(たてあなじゅうきょ)だが、蜆塚遺跡で復元がされているのは平地式住居。


小林達雄はこの定住生活の出現を縄文革命と呼び、次のように述べている。
「それ以前の生活では自分の経験を次に伝えられず、志半ばに集団から離れていく、だから旧石器時代は何十万年も続いても文化の程度はずっと平行線をたどるわけです。(中略)老人が経験や情報を次世代に伝え、それを受け取る人たちがちゃんといるという関係ができあがるからです。」(文化庁編、2015、pp60)
蜆塚遺跡で発掘されている屈葬された貝の腕輪した人物や土偶からは、アニミズム(精霊崇拝)と呼ばれる原始宗教の現れもみてとれる。

子供の頃はこれが怖かった


歴史教育の中心地


 蜆塚遺跡に隣接する浜松市博物館は、旧石器時代から近代までの資料を網羅した市立博物館。発掘品(レプリカ含む)とその説明も細かく、真剣に見れば半日以上かかるボリューム。時代順に整理されていて、何度か通えばここだけで浜松史を身に付けることはことができそう。このブログでも参考にしている文献の販売やオリジナルグッズの販売もあり。
公式ページ

公式マスコットのシジ丸氏。

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蜆塚遺跡
〒432-8018 静岡県浜松市中区蜆塚4丁目22−1
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参考資料
文化庁編『日本発掘』(朝日新聞出版、2015)